明日はオフだ。も前々からオフだと言っていたから、久々に夜更かしをしていろんな話をしたいと…そんなことを思っていて、柄にもなくその時間を楽しみにしていた。
体は疲れているはずなのに、マンションに向かう足取りは軽い。この時期特有のべたついた暑さも気にならない。
もうすぐ家だ、彼女は既に部屋に戻っているだろう、早く帰って抱きしめたい。

でも現実とは時として残酷なものだ。携帯電話がメールの着信を告げる。からだ。それは、私のこれからの幸福をまるで裏切るかのような内容。


“ごめんなさい、撮影がクランクアップしたのでそのまま関係者で飲みに行くことになっちゃって…。ほんとは飲み会は後日の予定だったんだけど…。帰るのは朝になってしまいそうです、ほんとにごめんね…。”


彼女が悪くないことは分かっている。この業界では何があってもおかしくないし、逆にいちいち気にしていてはやっていけない。
は今回の映画の主演だ。こんな席を断ることは出来やしない。私がその立場だったら、彼女と同じ決断をしていたはずだから、の決断は正しいことだ。

頭では分かっている。でも…、残念だとか、悲しいだとかそういう気持ちの方が勝ってしまうのは、私がこの日を楽しみににしていたからだろう。
例え明日のオフ、彼女が朝帰ってきたとしても…寝てないは、帰宅後にすぐ寝てしまうのは検討がつく。これではせっかくのオフが台なしになってしまう。
でも、そんな風に打ち上げを恨んでも仕方がない。彼女が明日の朝にならなければ帰ってこないことには変わりはないのだ。



先ほどまで軽かった足取りは、とても重かった。
やっとの思いで辿り着いた玄関。暗い部屋。電気をつける。
彼女のいないこの部屋を、何度も何度も見てきたはずなのに……どうして今日はこんなに不安で仕方がないのだろう。こんなに寂しい気持ちになったことなんて、今までになかった。

食べ物を適当に口に入れ空腹を満たし、シャワーを浴び寝支度をする。もう何も考えたくない。せめて目覚めたときに彼女が隣にいることを期待して、早々に寝ることにしよう。

本当は、今この瞬間にもとこのベッドの上で今週のあれこれを語らい、愚痴を言いながら笑い、眠い目を擦る彼女にキスをするはずだったのに。
そして明日の朝起きて落ち着いたところで、ゆっくり体を重ねるはずだったのに…。
私の願う幸せが全て水に流されてしまった今、もう目を閉じて眠ってしまうこと以外に他ない。



…しかし、悲しいことに、私は体こそ疲れきっているのに全く眠れなかった。
既に午前3時30分を過ぎた。私が帰宅したのは10時。ベッドに潜り込んだのは12時30分。こうも寝られない時間を過ごしては、憂鬱な気分になってしまう。誰しもがそうだろう。
もうこうなっては、一度体を起こした方がいい。リビングへ移動し、ミネラルウォーターを喉に流し込んで、ソファに腰を下ろした。
テレビをつけるが、この時間だ。これといった番組はやっていない。
何かDVDでも見ようかと思いデッキを除けば、先日発売したばかりの私のライブDVDが入っていた。取り出し忘れたのだろう。私にはそんな記憶はないので、彼女が見ていたらしい。


その瞬間に、堪らなく胸がいっぱいになった。
早く抱きしめたい。キスをしたい。捕まえたら離さないのに。
どうして私の傍にいないのだろう。本当に抱きしめたいときにいないだなんて。
DVDをケースにしまい、テレビの電源をオフにしてソファに座り直した。
彼女のことを考える度に、胸が押し潰されるように痛んでくる。
会いたい。会いたい。どんなに長く付き合っていたとしても、私たちはお互いにアイドルで忙しいため、この長い歳月もたったの2ヶ月や3ヶ月のように感じられてしまう。ときめきがなくなることはない。これが初めての交際である私にとっては、なおのこと。

こんなことを考えていても、仕方がないというのに…。
私たちの部屋に私しかいないことがあまりにも苦しくて、思わず膝を抱えて顔を伏せた。誰に見られる訳でもないけれど、この晴れない顔を隠したかったのだ。
じわじわと、涙が湧き出てくるのも止められなかった。泣いて気持ちが晴れるのなら、それもいい。
誰もいないのだ、膝を抱えたのだし、この際だから泣いてしまおうか。泣くなんて、いつ以来だろう。早乙女学園の卒業式、音也たちからもらい泣きをしたのが最後だった気がする。


あの時は、恋だ愛だと考えている余裕なんてなかったし、そんなものは邪魔な感情だとさえ思っていた。しかし、私はそれは間違ったことなのだと、今になって思う。
それを教えてくれたのは、やっぱりだった。
私がデビューして1年が経った頃、前の事務所から移籍してシャイニング事務所の所属アイドルになった彼女とたまたま仕事が一緒になり、それから距離が近くなっていった。

彼女は、私がHAYATOだったことを勿論知っていた。でも本当に私自身を見てくれていて、その包み込むような愛情に惹かれていった。

愛おしい。しかし愛おしいことが時として苦しみに変わることなど、知らなかった。恋とは楽しいことばかりではない。
留めなかった涙は、私の膝を濡らしていく。こんな姿、レンや翔が見たらどう思うだろうか。冷やかすか、笑うか、それとも顔を青くして心配するか。



*****



5時近くなり、外はかなり明るくなってきた。夏場は陽が長いなあ…なんてぼんやり思いつつ、マンションの入口のロックを開けてエレベーターに乗り込む。
居酒屋からの二次会で疲れてしまった。それでもまだ三次会、という雰囲気すらあったので、逃げるように挨拶をして帰ることにしたのである。
まあ、朝8時帰宅コース、ぐらいは予想はできてはいたけど…流石にトキヤが気になって切り上げることにした。
彼に謝罪のメールをしたのはいいものの、返信があまりにも素っ気なかったことが気になってならない。

施錠された玄関の鍵を開けて、やっと帰宅。アルコールが抜けていないので若干のふわふわ感があったけれど、眠いことも手伝っているのだろう。
靴を脱いでリビングへ繋がる廊下へと足を進める。と、リビングのドアの曇りガラスから光が漏れていることに気がついた。
几帳面な彼のことだ、消し忘れたとは到底思えない。トキヤ、もしかして起きてる?

そろりとドアを開けると、ソファの上で膝を抱えて俯くトキヤがいた。表情は見えない。

「トキヤ…寝てなかったの?」
「……」
「トキヤ?…起きてる?」

ゆっくり近寄って覗き込むようにすれば、彼が身じろいだ。起きているらしい。
でもなかなか私に顔を見せてくれない。いつもなら、おかえりと言って頭を撫でてくれるのに。

「トキヤ?」
「………ぐずっ」
「えっ、泣いてる…の…?」

そう問い掛ければ、嫌がるように顔を逸らされた。
見たことのないトキヤのその行動に、焦りを感じたのは言うまでもない。
アルコールが回った私の頭も、そんな状況ですっかり冴えてしまった。

「なんでも…ないです…」

振り絞るような声。掠れている。やっぱり泣いてたんだ。
膝に顔を押し当てたままの彼は、とても小さく、弱く見えた。

「なんでもないわけないでしょ…一体どうしたの?私が帰らなかったから…?」
「違います…」
「でも…拗ねてるみたいだよ」
「っ!拗ねてなんか…っ!」

トキヤ涙声が部屋に響いた。ふるふると震え出した肩は、寂しかったと言っているように見える。
その肩をゆっくり摩れば、トキヤ深呼吸をして息を整えはじめた。

「…ごめんね」
「あなたは…悪くありません……。そういう付き合いは大事なことですから…」
「うん…」

それでも尚、トキヤは顔を上げてはくれなかった。
鼻を啜る音や震える息の音が、彼がどれだけの状況にあるのかを簡単に予測させてしまう。
トキヤは私と昨夜、そして今日を過ごすことを楽しみにしていた。だから、それをキャンセルされてしまっては少なからずの不満はあってもおかしくはない。でもトキヤという人は、そういうことがあってもまるで事務処理をするように終わらせてしまう。まあそういうこともある、と解決させるのだ。一体誰がこんなにそのことに執着する彼を知っているだろうか。

「…拗ねてないなら…怒ってる?」
「違います…」
「…私との約束がだめになって悲しかった?」
「いえ…」

彼がここまでになる理由を、あれこれ探してはきいてみる。それでも、トキヤがなぜ泣いているのか、その理由に到達することはなかなかできたものではない。

「トキヤ…、何があったかわからないけど、きっと私のせい、だよね…ごめんね…」
「ちが…っ、あなたはなにも悪くない…」
「でも…じゃあなんで泣いてるの…?」
「それは…」

トキヤは少しだけ顔を上げ、ちらりと私を見た。赤くなった目元が痛々しい。すぐにまた顔を伏せて、掠れた声で続けた。

「…最初は、あなたが隣にいないことが、とにかく悲しかった…」

まあ、やっぱり原因といえばそれだろうなあ。
トキヤの肩を優しく撫でながら、彼の言葉の続きを待つ。

「でも……、あなたが参加した今日の打ち上げには…音也もいたのでしょう…?」
「えっ…うん、勿論」

音也くんはメインキャストの一人。勿論参加するに決まっている。彼は終始場を盛り上げては弄られたりと、打ち上げの雰囲気を作るのに欠かせない人物だ。

「もしかして…嫉妬?トキヤとの時間より打ち上げとはいえ音也くんと会ってることに対して?」
「そうじゃありません…」
「じゃあ…なに?」

音也くんに対してなにかあるとして、それが嫉妬ではないとしたら他に何があるというのだろうか。

「…あなたが、朝帰るまでの間に音也となにもないとは言い切れません…」
「え、ちょ、なにもないよ」
「それも本当かどうか…」
「ないよ!それに私、少なからずトキヤが心配で皆より先に帰ってきたんだよ?」
「でも…っ、酒が入ったらどうなるかわからないじゃないですか…」
「…私を信じてないの?」
「信じてないわけでは……、ただ…」
「……」
「…だって、帰りが朝になってしまうかもと言われたら…嫌でも想像してしまうじゃないですか…」

演技ではない、彼の本心。消えそうなぐらいの震える声で、振り絞るように紡がれた言葉。
彼の胸のうちを聞いて、私の心臓は捕まれたような錯覚すらした。

「もしそんなことにでもなったら……あなたは私より音也を選んだことになる…」
「そんなことあるわけないよ…第一音也くんの意思もあるじゃない」
「…その音也が、あなたに好意以上の感情を抱いているとしたら?」
「え、」

好意以上の感情、つまりは恋心ということだ。音也くんが私に対して恋愛感情を抱いている?そんなことあるわけない。

「あなたは鈍感だから気づいていないだけです…」
「えっ、いやいやまさか」
「私はずっと、いつだって気が気でなりませんでしたよ…。映画で共演すると知ったときは、あなたを奪われかねないと……いえ、恋人役だと知った瞬間に、音也があなたに伝えるのも時間の問題だと思いました…」

いつだって自信家なトキヤが、こんなに不安を抱えていたなんて。彼はいつも私の後押しをしてくれたし、私が忙しいときには仕事の方が大切ですからと約束を取りやめにしても平然としていたのに。

「…それでも、絶対ないよ」
「なぜ…言い切れるんですか」
「だって、私が好きなのはトキヤだから」

今までずっと伏せられていたトキヤの顔が、ゆっくり上げられる。
赤く縁取られた目が私を弱々しく見つていた。
包むように抱きしめれば、彼は一息深呼吸をして、私の背中に手を回す。

「トキヤだけだから」
「…っ、…」
「わ、もう…泣いたら駄目だよ、目が腫れちゃう」
「たまには泣かせてください…」

私を離すまいと掴んだ腕は、やっぱりまだ震えていた。
それがなんだかくすぐったくて、いつもの彼らしくない彼が可愛く思えてしまって。
トキヤの頭をゆっくり撫でながら、彼が落ち着くまで抱きしめたままでいることにした。

「トキヤしかいないよ、だからもっと自信を持って」
「すみません…でも…」
「もう、悪く考えすぎだよ。いつもは自信家なのに、そんなに気落ちしてたらどんどん悪く考えちゃうんだから。ほら、私はちゃんとトキヤの元に帰ってきたんだよ。どういうことかわかるでしょ?」

彼の涙が残る目尻を拭ってあげると、まだ切なそうに見つめてくるものだから、頬にキスをしてあげた。
唇を離した瞬間に、トキヤが思いっきり抱きしめてくる。
きっと、泣いちゃってだんだんネガティブになっちゃったんだろうなあ…、いつもなら、「そんなことしたら音也を生かしてはおきません」ぐらい言うのに。

「…トキヤ、私そろそろ睡魔が…」
「私も…寝ていないので…(うとうと)」
「わ、ここで寝ちゃだめだよ、ベッドいこう」
「ん…一緒に、寝てくれますか…?」
「うん、だからほら、おいで」

ずっと抱きしめていてあげる。そしたら安心して眠れるでしょう?


わたしのハリストス







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